• A Commentary on the Close Reading of Fine Literature


    “See Spot.”

    What is a “Spot”? Let’s look at this from the author’s perspective. “Spot” is named such because it is a dog with spots, in a time where people named animals for their visual features.

    Are we sure “Spot” is a dog? Why do we assume this? Is Spot a person with an odd name? Is Spot named such not for its physical features, but to symbolize the author’s connection with a location?

    Shall we think of the implications of naming living, conscious beings solely for their physical appearance? Would not this count as evil, for it is denying poor Spot of all its other no doubt wonderous qualities? It is condemnable for the author to write Spot from such a narrow perspective.

    “See Spot run.”

    Why is Spot running? Is it from the abuses of the time, or from the author’s cruel denial of Spot’s freedom? The poor being, simply seen for its visual features or its connection with a place and time unknown to it. “Spot”, such a simplistic and silly name; no wonder Spot runs!

    We watch Spot run for sport; we, the cruel watchers, do nothing to help Spot from its plight. Why do we simply watch Spot run, instead of help? Is it because we are unable to help, or perhaps because we find amusement in Spot’s suffering?

    Let us look at Spot in the context of its time: a time of change, the 1970s. Spot sees the cruelties of the world, watches the cold war, waits for nuclear annihilation, yet what can Spot do? Spot knows not, so Spot runs. Spot runs from its problems. Spot runs to ease its stress from the horrors of modern life. Spot can do nothing but run.

    “Run Spot, run.”

    Why do we command Spot to run? We’ve already seen him running, yet we tell, nay, demand Spot runs more. What are the implications here? Why do we, the readers, care whether Spot runs, walks, or stays? Is it to gain the pleasure of control over another sentient being?

    Perhaps we should look at this from a gendered standpoint; is Spot male or female? Can we assume Spot is living oppressed, under the writer’s yoke? What, pray tell, can we assume of Spot’s thoughts on this? Does Spot follow these commands issued, or does Spot stay in defiance? If Spot does not run, will Spot be beaten? As we command, so Spot seems to follow; does Spot forget its free will?

    Run, ye pathetic creature. Obey the command unthinkingly, lest ye gain freedom. Run, for we say “run.”

    Run, from a world unknown to you, and treatment unjust. Your “owners” command you to run, so run.





  • 現代空手 ― 三種類の関係


     現代空手は歴史的な空手と一番多く違いは種類の数である。現代空手には三種類がある。その三つは学院、スポーツや伝統的な空手である。三つの種類が確かあるが、重要な覚える部分は全部の空手は同じ源から来た。そして、その三つの側面はただただ空手と言う宝石の別々のファセットだから、大切な部分はあまり違わない。

    空手の父と言う達人は昔に言ったとおり、この幻く分裂は多きな問題と思われる。

    “One serious problem, in my opinion, which besets present-day Karate-do is the prevalence of divergent schools. I believe that this will have a deleterious effect on the future development of the art.”

    船越義珍,1975p.37

    学院空手

     学院空手は日本学校に小学校から授業や部活動がある。船越義珍氏は空手を広がるのために学院空手作られた。学院空手は他の空手より多くの単純なかたが持っている。これは早い学ぶのためだが、大切な部分は残られた。例えば、空手は開いた手攻撃や武器の使え方が過去に教えていたが、学院空手にはそのものがない。

     もちろん、その残させた技は理屈があっていた。一番重要な理由は対象とする訪問者のために。学院空手は子供に教えてつもりだったから、人殺し方法は学院空手から外した。それも、安全練習のために、特に危ない技や練習方法も外した。これの例は、巻き藁の練習があまり学院空手は今までに教えることがありえない。

     上の理由のせいで学院空手は「ぴなん」というかたを教えして、手の形はパーの手からグーの手で個体して、空手術から空手道へ変更していた。船越義珍は子供を教えるのために「ぴなん」というかたが作られた。そのかたは伝統的なかたから改造して、指先の伎や必殺技を外して、そうして拳の使え方を集中していた。それも、学院空手の狙いは戦いでわなくて、生徒の個人的な健康を上がるのためだった。この理由ので、船越氏は学校に教えるはほとんどの骨訓練も外していた。

     健康と言えば、徳に精神的な健康の効果があった。学院空手は肉体、精神や魂を全部訓練している。謙遜は特に大事である。他人を考えて、配慮と思いやりは武術者に大切さは過小評価してはいけない。船越義珍氏はこの考え方をはっきりに書けた。

    “One of the things I always tell my new students is that he who thinks about himself alone and is inconsiderate of others is not qualified to learn Karate-do. Serious students of the art, I have discovered, are always highly considerate of one another. They also demonstrate the great steadfastness of purpose that is essential if one is to continue studying karate over the long period of time that is required.”

    船越義珍, p.104

    スポーツ空手

     スポーツ空手は学院空手の自然な進化である。学院空手もスポーツ空手と混ざっている。しかし、スポーツ空手は学院空手から全然別のものである。学院空手は個人的な成長に狙っているがスポーツ空手は競争の狙いである。このために、スポーツ空手は固いなルールが作って、組手やかたを分裂して、そうして、その分裂のせいで基本的な動くを変更されていた。

     スポーツ空手は最初に日本国家威信のために作られた。その時は役人たちは西の影響が心配していたから、西国のボクシングと競争するのためだった。そのために、技や美学がルールで変更された。それ以外に、安全な空手技を練習するのためもスポーツ空手を作られた。柔道と比べが多かったので、ルールも格闘するは禁止になった。

     かたの場合には、大会の中にかたのリストがある。戦士たちのかたはそのリストから来なければならないので、珍しいや特別のかたは大会に使われない。それも、大会のために、かたの前や後で礼が必要になった。戦士たちのかたの動きは役人を判断されて、そうしてポイントをあげる。

     現代のかた大会の前に、いくつのかたがあっていた。これはスポーツの作るために問題に見られたから、多くの変更が必要になった。亀川爵氏がこの問題にはっきり説明された。

    このことについて、「県指定無形文化財 『沖 縄の空手・古武術』 保存会」の前会長・友寄 隆宏は、沖縄の空手はどの流派も共通の統一 された「型」がないので、流派内における「型」 の違いがあり、世界大会や国際大会はできま せん。「『型』が命」と言っている沖縄の空手 の普及は、各流派の先生から習得した「型」 世界へ普及させているのです。 同じ先生か ら指導を受けているが、「型」についての統 一した指導はされていません。 「型」は習得 する人により違いが出るのが自然という考えがあるのです。 県指定無形文化財 「沖縄の空 手・古武術」保持者の故伊波康進がそのよう な考えで、沖縄の空手は「『型』が命」と言 いながら、習得する人により違いが出るのは 自然で、違いが出て当然、「型」を崩しても いいというのであり、説得するのにとても困 りました。各流派ともに「型」の統一につい て関係者が集まり、統一の「型」作りについ て協議したことがありません。現在もこの状 況が続いているのです。

    亀川爵(2020) p.73-74

     組手の場合は少々かたより複雑である。組手の試合には、とあるの技やターゲット場所は禁止されて、審判たちだけが戦士にポイントを上げられる。ポイントを取った場合には、試合が止めて、戦士たちは最初の場所に戻って、そうして最初からはじめ栗化している。禁止ターゲット場所の例は足の蹴り、だが、足払いは許される。それも、禁止技は2手の掴む、前蹴り、横蹴りやボクシングの突きが全部禁止である。

    伝統的な空手

     元は、学院空手とスポーツ空手は両方ただ伝統的な空手の広告だった。伝統的な空手には、元のかた、ブンカイや武器を学べる。伝統的な空手に特に基本技の重要性が強調されている。その基本のために、帯の試験るはもっと厳しが、その帯を取ったら腕が確かある。

     伝統的な空手は自公防衛のために訓練しているから、そのきつい訓練の理由はわかりやすいと思われる。自公防衛の場合には、自分の人生に危険があるから、その時に安全を確かのためにきつい訓練は当たり前なことと思われる。そのためも、伝統的空手の道場には、よくフールコンタクト組手がおこわれる。関節技も伝統的な道場に練習している。しかし、安全のために、3だん以上の教師はいつもその道場を管理している。安全のためも、伝統的な生徒たちはまきわらでよく骨を訓練している。

     歴史的には、伝統的空手は一番古い空手種類である。だが、伝統的な空手も現代の変わるが逃げられない。伝統的な空手も学院やスポーツ空手のために変化していた、そうして、古いのかたやぶんかいをだんだん失われている。例えば、今の道場は伝統的な地面近いなフートワークから飛ぶフートワークによく変更している。これは大会のルールのためである。私の意見には、この変化は戦闘的な効果を失って、悲劇である。本部朝基という達人も過去にこの思いを書いていた。

    唐手はその種類多く、中には忘れらたのもあれば、又現在行はれないのもあつて、その發達も實に複雑である。世の變遷共に唐手にもよく流行しない手が出來ると云ふ風で、その時代により或いは場所によつて、その用ひられし手が自ら異なれるものでえある。

    本部朝基(1993)p.5

     結論として、現代空手は三つに分裂されたが、その三つは全部空手である。ただ、別のルールや目的に別の空手が使われる。空手の進化はまだ終わっていない、それとだんだん未来にもっと進化できると思われる。しかし、その進化ながら、古い知識や智識を失わないでは一番大切なものである。空手の進化は大な木のように、古い根から天に新しい枝がだんだん伸びている。ただ、根が失ったら全部の木が倒れる。

    参考文献

    船越義珍(1975)「 Karate-do, My Way of Life 」、Kodansha International.

    本部朝基(1993)『拡大復刻版 日本傳流兵法本部拳法』、壮神社.

    亀川爵(2020)「沖縄を世界空手の聖地に」、ゆい出版.





  • 唐手(とうでぃ)から空手へ - 長い歴史の変遷



     「空手」の歴史は意外に複雑でおもしろい。中国の功夫から唐手(とうでぃ)へ、そして、最後に、空手となり、その道程は長い。別々の国の政治は効果があって、戦争が起こって、空手の基本と目的が変わった。したがって、空手の歴史は少林寺の功夫に始まっていたにもかかわらず、年月を重ね、沖縄文化となり、そうして、戦争や政治、差別などを通し、、日本文化になっていた。

    功夫から唐手へ、空手と功夫の違い

     現代の空手の始まりは「唐手」と言う武術だった。唐手は少林寺の功夫から来た、しかし、どのようにしてその功夫は琉球王国に到着したかは大きな謎である。この質問の答えは古い話の中に見ることができる。古い言い伝えによると、「中国の船員たちは琉球王国の近くで難破し、そして、琉球の人々は船員を助けた。感謝とのしるしとして、船員たちは琉球人に功夫を教えた。」これはあくまで伝説であるが、だが、歴史的に信ぴょう性があると言われている。

     歴史的には、琉球王国と中国は良好な関係があり、琉球王国民の中国の船員への優しさは十分に想像しえる。10世紀から、中国と琉球王国は貿易関係があった。琉球王国は中国へ朝貢し、貿易が始まった。この関係性は、上司部下のような関係の小宇宙のように見える。

     唐手の原点は二つの功夫流派からたどることができる。この二つの流派は「白鶴拳」と「羅漢拳」だ。多くの現代の空手の型はこの二つの流派に由来しているが、現代の空手の場合には、その型はさらにシンプルかつ直線的なものとなった。

     「白鶴拳や羅漢拳が唐手になった」と言う主張の根拠は現代の空手の型に見ることができる。例えば、もっとも古いな空手の型は「三戦」と言う型である。別々な流派は別々な三戦の型があれが、ほとんどの流派の中には三戦がある。しかし、空手の歴史の前には、さらに複雑な三戦が白鶴拳の中にあった。それに加えて、羅漢拳の型がさらに単純な形ではあるが、全て空手の中に入っている。ここの「さらに単純」の意味はフットワークが簡単になり、手伎の数は少なくなったということである。

     このような変化の理由はいくつも考えられるが、私の意見は難破した船員たちから琉球人へ広まる間に内容が変わっていったのだと思う。この変化の理由には、二つのことが考えられる。一つ目は、その船員たちはまだ達人ではなかったため、流派の全ての知識が持っていないということである。二つ目は、船員たちはあえて流派の全てを教えなかったということである。これには歴史的な例がある。特に武術的には、秘伝とされる術やその知識は大切なのものであり、達人は弟子に流派の全てを教えないことは普通のことである。弟子が正確な技術や知識を会得してのち初めて、流派の全てを教えるものであった。

     空手が功夫から来たが、多くの違いがある。最大の違いはフートワークである。空手には、功夫の足技がほとんどないが、琉球人たちは新しいフートワークを作った。空手のフートワーク訓練は功夫と比べて足技の数は少なく、一方で早さの重視があり、空手の構えはさらに細分化された。フートワーク以外では肉体鍛錬のコンディショニングである。功夫と空手はまったく違うコンディショニング理論である。功夫のコンディショニングには、筋肉は柔らかくし、そうしてぱったんような殴れを自分の体にあってる。これは内臓を丈夫にする方法でもある。しかし、空手の場合には、筋肉を硬くし、体を石のように鍛えるものである。これは筋肉を丈夫にするものである。これらの理論の違いは体の内と外のどちらを中心に訓練するかの違いである。

    琉球王国で唐手の存在

     琉球王国には、唐手は完全に新しいものに変化した。この変化の理由を示す記録は時代の流れの中で失われていったが、いくつかの提案はできる。功夫以外の影響は侍の武術、琉球王国の文化や薩摩の支配だった。唐手のフートワークは現代の柔道と似ており、安全な予測は侍の武術からの影響もあった。唐手と侍の武術が出会った理由は薩摩藩の支配時代であったろう。しかし、それも「空手は船で戦うもの」という古い話にあるように、歴史的には、琉球王国は海洋王国であったため、それも影響があったかもしれない。

     薩摩藩の支配の下、武術の鍛錬に制限が設けられた。特に、多くの民は刀を持つことは禁止された。これも唐手には影響があった。唐手とその他の武術を薩摩藩から隠すことが必要になった。そのために、琉球王国の士族は自身の特別な武術の技を踊りの中に隠すなどした。関節技や崩し技は現在の雑踊りに見ることができるという。刀の武術は唐手の王権流派がまだ存在するが、他の唐手流派は剣術の基本を流派の型や基本技の中に隠した。だが、この隠すこと自体が意外に良いものを生み出していった。隠した伎は余興となり、いつしか、その余興は広まり、現代の空手につながっていった。

     他の唐手が変われたものは唐手の達人たちの混ざて練習だった。歴史的に、唐手の達人は三つの町、首里、泊、那覇を中心に発展してきた。その三地域で、名のある達人がともに修行し、語り合い、そして、自身の唐手を磨き上げてきた。

    王国時代、首里城を中心に発達した「首里手」、商業都市那覇で栄えた「那覇手」、両者の中間にあった泊村一帯で栄えた「泊手」があった。いずれの地域でも著名な武人を多く輩出し、その伝統を今日に伝えている。

    沖縄県教育庁保健体育課編(1995)p.3

    唐手から現代の空手へ

     唐手から現代空手への変化は唐手の達人の業績や時代の趨勢、国内外の政治の影響が大きかった。特に、糸洲安恒や船越義珍は多くの影響力を持った。その両名は「現代唐手の父」と呼ばれている。門下生が学ぶために、糸洲安恒は複雑な古い型を単純な平安型を作った。糸洲安恒は唐手が日本本土に伝えるために、「唐手心得十ヶ条」と言う有名な手紙を書いた。が、糸洲安恒のもっとも重要な貢献は他の唐手の達人に手ほどきをしたことである。その時代の有名な唐手の達人の多くは彼の弟子であった。

     糸洲安恒は唐手に日本へ伝えたが、船越義珍はその唐手で一躍有名になった。船越義珍は糸洲安恒の弟子だった。彼が有名となったきっかけは船越・義珍と彼の弟子が東京の柔道の総本山、「講道館」で唐手の披露を行ったことであったであった。その後、1936年に、船越・義珍は自身の道場を建てた。その道場の教えは現代の『松濤館』と言う空手になった。それ以外に、その道場に教え時には、中国の影響を隠すために、船越・義珍は唐手の「唐」は「空」に変化した。これは現代の空手の誕生だった。

     他の現代空手の貢献者はもちろん、別々の流派の創設者だった。例えば、少林流の場合には、喜屋武朝徳と言う達人は創設者ではなかったが、少林流に大きな影響があった。喜屋武氏は本部家で生まれたが、喜屋武家の養子になった。本部家は琉球王国の貴族だった、琉球語で「本部うどぅん」と呼ばれていた。本部うどぅんも影響力のある空手家を生んだ。その達人の一人は本部朝勇と言う達人だった。本部朝勇は本部家の武術の一派、琉球王国の王権流を学び、「本部うどぅん手」を創設した。本部うどぅん手は他の空手と違って関節技が多くあり、実践的な武術だった。あと一人の著名な本部家の達人は本部朝基だった。本部朝基は実践的な喧嘩に興味があり、そのために彼はよく技を試すためにストリートファイトをしていたという。もっとも有名な拳闘試合は本州で試合で外国人のボクサーに勝った。その他の重要な試合では、本部朝基は船越義珍の道場破りをした。とはいえ、本部朝基の空手「本部流」は有名にならなかった。

    次に「空手」が学校教育の授業として採用されなかった理由について考えてみる。

    明治三十四年(一九〇一首里尋常小学校(後の首里第一小学校)で、糸洲安恒の指導のもとに正課の授業が始められた、という話がある。学校という規則の厳しいとおころで、いかに「からて」が体育的の価値が高いからといって、ある日突然、正課の授業になるとは、常識的に考えられないことである。

    金城裕(2011)p.323

     結論として、空手の歴史に多くの痕跡を残した。中国から不完全な功夫が琉球王国に伝わり、琉球人はその功夫を完成した。その後、日本は琉球王国を支配し、そうて、最後に、唐手は空手となって日本で人気を得た。それぞれの達人たちはそれぞれの変化を引き起こされたが、空手の基本には、まだ功夫が見える。そのルーツを忘れないことは大切なことであると思われる。

    参考文献

    嘉手苅徹(2016)「近代における空手道(唐手)の型の創造に関する一考察:船越義珍の著作における「型の構成」を手がかりにして」、Research Journal of Budo 49 (2), p.121-136.

    嘉手苅徹・豊嶋建広・井下佳織(2017)「琉球処分以降における転換期の唐手に関する一考察」、麗澤学際ジャーナル25、p.69-80.

    本部朝基(1993)『拡大復刻版 日本傳流兵法本部拳法』、壮神社.

    船越義珍(1975)「 Karate-do, My Way of Life 」、Kodansha International.

    新垣清(2013)「The Elucidation of Pinann or Heian: The Explanation of Okinawan Karate Kata as a Method of Martial Arts.」、株式会社原書房

    亀川爵(2020)「沖縄を世界空手の聖地に」、ゆい出版.

    沖縄県教育庁保健体育課編(1995)『沖縄空手・古武道クラブ』、沖縄県教育委員会.





現代空手 ― 三種類の関係

 現代空手は歴史的な空手と一番多く違いは種類の数である。現代空手には三種類がある。その三つは学院、スポーツや伝統的な空手である。三つの種類が確かあるが、重要な覚える部分は全部の空手は同じ源から来た。そして、その三つの側面はただただ空手と言う宝石の別々のファセットだから、大切な部分はあまり違わない。 空手の父と言う達人は昔に言ったとおり、この幻く分裂は多きな問題と思われる。 “One serious problem, in my opinion, which besets present-day Karate-do is the prevalence of divergent schools. I believe…

唐手(とうでぃ)から空手へ - 長い歴史の変遷

 「空手」の歴史は意外に複雑でおもしろい。中国の功夫から唐手(とうでぃ)へ、そして、最後に、空手となり、その道程は長い。別々の国の政治は効果があって、戦争が起こって、空手の基本と目的が変わった。したがって、空手の歴史は少林寺の功夫に始まっていたにもかかわらず、年月を重ね、沖縄文化となり、そうして、戦争や政治、差別などを通し、、日本文化になっていた。 功夫から唐手へ、空手と功夫の違い  現代の空手の始まりは「唐手」と言う武術だった。唐手は少林寺の功夫から来た、しかし、どのようにしてその功夫は琉球王国に到着したかは大きな謎である。この質問の答えは古い話の中に見ることができる。古い言い伝えによると、「中国の船員たちは琉球王国の近くで難破し、そして、琉球の人々は船員を助けた。感謝とのしるしとして、船員たちは琉球人に功夫を教えた。」これはあくまで伝説であるが、だが、歴史的に信ぴょう性があると言われている。  歴史的には、琉球王国と中国は良好な関係があり、琉球王国民の中国の船員への優しさは十分に想像しえる。10世紀から、中国と琉球王国は貿易関係があった。琉球王国は中国へ朝貢し、貿易が始まった。この関係性は、上司部下のような関係の小宇宙のように見える。  唐手の原点は二つの功夫流派からたどることができる。この二つの流派は「白鶴拳」と「羅漢拳」だ。多くの現代の空手の型はこの二つの流派に由来しているが、現代の空手の場合には、その型はさらにシンプルかつ直線的なものとなった。  「白鶴拳や羅漢拳が唐手になった」と言う主張の根拠は現代の空手の型に見ることができる。例えば、もっとも古いな空手の型は「三戦」と言う型である。別々な流派は別々な三戦の型があれが、ほとんどの流派の中には三戦がある。しかし、空手の歴史の前には、さらに複雑な三戦が白鶴拳の中にあった。それに加えて、羅漢拳の型がさらに単純な形ではあるが、全て空手の中に入っている。ここの「さらに単純」の意味はフットワークが簡単になり、手伎の数は少なくなったということである。  このような変化の理由はいくつも考えられるが、私の意見は難破した船員たちから琉球人へ広まる間に内容が変わっていったのだと思う。この変化の理由には、二つのことが考えられる。一つ目は、その船員たちはまだ達人ではなかったため、流派の全ての知識が持っていないということである。二つ目は、船員たちはあえて流派の全てを教えなかったということである。これには歴史的な例がある。特に武術的には、秘伝とされる術やその知識は大切なのものであり、達人は弟子に流派の全てを教えないことは普通のことである。弟子が正確な技術や知識を会得してのち初めて、流派の全てを教えるものであった。  空手が功夫から来たが、多くの違いがある。最大の違いはフートワークである。空手には、功夫の足技がほとんどないが、琉球人たちは新しいフートワークを作った。空手のフートワーク訓練は功夫と比べて足技の数は少なく、一方で早さの重視があり、空手の構えはさらに細分化された。フートワーク以外では肉体鍛錬のコンディショニングである。功夫と空手はまったく違うコンディショニング理論である。功夫のコンディショニングには、筋肉は柔らかくし、そうしてぱったんような殴れを自分の体にあってる。これは内臓を丈夫にする方法でもある。しかし、空手の場合には、筋肉を硬くし、体を石のように鍛えるものである。これは筋肉を丈夫にするものである。これらの理論の違いは体の内と外のどちらを中心に訓練するかの違いである。 琉球王国で唐手の存在  琉球王国には、唐手は完全に新しいものに変化した。この変化の理由を示す記録は時代の流れの中で失われていったが、いくつかの提案はできる。功夫以外の影響は侍の武術、琉球王国の文化や薩摩の支配だった。唐手のフートワークは現代の柔道と似ており、安全な予測は侍の武術からの影響もあった。唐手と侍の武術が出会った理由は薩摩藩の支配時代であったろう。しかし、それも「空手は船で戦うもの」という古い話にあるように、歴史的には、琉球王国は海洋王国であったため、それも影響があったかもしれない。  薩摩藩の支配の下、武術の鍛錬に制限が設けられた。特に、多くの民は刀を持つことは禁止された。これも唐手には影響があった。唐手とその他の武術を薩摩藩から隠すことが必要になった。そのために、琉球王国の士族は自身の特別な武術の技を踊りの中に隠すなどした。関節技や崩し技は現在の雑踊りに見ることができるという。刀の武術は唐手の王権流派がまだ存在するが、他の唐手流派は剣術の基本を流派の型や基本技の中に隠した。だが、この隠すこと自体が意外に良いものを生み出していった。隠した伎は余興となり、いつしか、その余興は広まり、現代の空手につながっていった。  他の唐手が変われたものは唐手の達人たちの混ざて練習だった。歴史的に、唐手の達人は三つの町、首里、泊、那覇を中心に発展してきた。その三地域で、名のある達人がともに修行し、語り合い、そして、自身の唐手を磨き上げてきた。 王国時代、首里城を中心に発達した「首里手」、商業都市那覇で栄えた「那覇手」、両者の中間にあった泊村一帯で栄えた「泊手」があった。いずれの地域でも著名な武人を多く輩出し、その伝統を今日に伝えている。 沖縄県教育庁保健体育課編(1995)p.3 唐手から現代の空手へ  唐手から現代空手への変化は唐手の達人の業績や時代の趨勢、国内外の政治の影響が大きかった。特に、糸洲安恒や船越義珍は多くの影響力を持った。その両名は「現代唐手の父」と呼ばれている。門下生が学ぶために、糸洲安恒は複雑な古い型を単純な平安型を作った。糸洲安恒は唐手が日本本土に伝えるために、「唐手心得十ヶ条」と言う有名な手紙を書いた。が、糸洲安恒のもっとも重要な貢献は他の唐手の達人に手ほどきをしたことである。その時代の有名な唐手の達人の多くは彼の弟子であった。  糸洲安恒は唐手に日本へ伝えたが、船越義珍はその唐手で一躍有名になった。船越義珍は糸洲安恒の弟子だった。彼が有名となったきっかけは船越・義珍と彼の弟子が東京の柔道の総本山、「講道館」で唐手の披露を行ったことであったであった。その後、1936年に、船越・義珍は自身の道場を建てた。その道場の教えは現代の『松濤館』と言う空手になった。それ以外に、その道場に教え時には、中国の影響を隠すために、船越・義珍は唐手の「唐」は「空」に変化した。これは現代の空手の誕生だった。  他の現代空手の貢献者はもちろん、別々の流派の創設者だった。例えば、少林流の場合には、喜屋武朝徳と言う達人は創設者ではなかったが、少林流に大きな影響があった。喜屋武氏は本部家で生まれたが、喜屋武家の養子になった。本部家は琉球王国の貴族だった、琉球語で「本部うどぅん」と呼ばれていた。本部うどぅんも影響力のある空手家を生んだ。その達人の一人は本部朝勇と言う達人だった。本部朝勇は本部家の武術の一派、琉球王国の王権流を学び、「本部うどぅん手」を創設した。本部うどぅん手は他の空手と違って関節技が多くあり、実践的な武術だった。あと一人の著名な本部家の達人は本部朝基だった。本部朝基は実践的な喧嘩に興味があり、そのために彼はよく技を試すためにストリートファイトをしていたという。もっとも有名な拳闘試合は本州で試合で外国人のボクサーに勝った。その他の重要な試合では、本部朝基は船越義珍の道場破りをした。とはいえ、本部朝基の空手「本部流」は有名にならなかった。 次に「空手」が学校教育の授業として採用されなかった理由について考えてみる。 明治三十四年(一九〇一首里尋常小学校(後の首里第一小学校)で、糸洲安恒の指導のもとに正課の授業が始められた、という話がある。学校という規則の厳しいとおころで、いかに「からて」が体育的の価値が高いからといって、ある日突然、正課の授業になるとは、常識的に考えられないことである。…