唐手(とうでぃ)から空手へ - 長い歴史の変遷

 「空手」の歴史は意外に複雑でおもしろい。中国の功夫から唐手(とうでぃ)へ、そして、最後に、空手となり、その道程は長い。別々の国の政治は効果があって、戦争が起こって、空手の基本と目的が変わった。したがって、空手の歴史は少林寺の功夫に始まっていたにもかかわらず、年月を重ね、沖縄文化となり、そうして、戦争や政治、差別などを通し、、日本文化になっていた。 功夫から唐手へ、空手と功夫の違い  現代の空手の始まりは「唐手」と言う武術だった。唐手は少林寺の功夫から来た、しかし、どのようにしてその功夫は琉球王国に到着したかは大きな謎である。この質問の答えは古い話の中に見ることができる。古い言い伝えによると、「中国の船員たちは琉球王国の近くで難破し、そして、琉球の人々は船員を助けた。感謝とのしるしとして、船員たちは琉球人に功夫を教えた。」これはあくまで伝説であるが、だが、歴史的に信ぴょう性があると言われている。  歴史的には、琉球王国と中国は良好な関係があり、琉球王国民の中国の船員への優しさは十分に想像しえる。10世紀から、中国と琉球王国は貿易関係があった。琉球王国は中国へ朝貢し、貿易が始まった。この関係性は、上司部下のような関係の小宇宙のように見える。  唐手の原点は二つの功夫流派からたどることができる。この二つの流派は「白鶴拳」と「羅漢拳」だ。多くの現代の空手の型はこの二つの流派に由来しているが、現代の空手の場合には、その型はさらにシンプルかつ直線的なものとなった。  「白鶴拳や羅漢拳が唐手になった」と言う主張の根拠は現代の空手の型に見ることができる。例えば、もっとも古いな空手の型は「三戦」と言う型である。別々な流派は別々な三戦の型があれが、ほとんどの流派の中には三戦がある。しかし、空手の歴史の前には、さらに複雑な三戦が白鶴拳の中にあった。それに加えて、羅漢拳の型がさらに単純な形ではあるが、全て空手の中に入っている。ここの「さらに単純」の意味はフットワークが簡単になり、手伎の数は少なくなったということである。  このような変化の理由はいくつも考えられるが、私の意見は難破した船員たちから琉球人へ広まる間に内容が変わっていったのだと思う。この変化の理由には、二つのことが考えられる。一つ目は、その船員たちはまだ達人ではなかったため、流派の全ての知識が持っていないということである。二つ目は、船員たちはあえて流派の全てを教えなかったということである。これには歴史的な例がある。特に武術的には、秘伝とされる術やその知識は大切なのものであり、達人は弟子に流派の全てを教えないことは普通のことである。弟子が正確な技術や知識を会得してのち初めて、流派の全てを教えるものであった。  空手が功夫から来たが、多くの違いがある。最大の違いはフートワークである。空手には、功夫の足技がほとんどないが、琉球人たちは新しいフートワークを作った。空手のフートワーク訓練は功夫と比べて足技の数は少なく、一方で早さの重視があり、空手の構えはさらに細分化された。フートワーク以外では肉体鍛錬のコンディショニングである。功夫と空手はまったく違うコンディショニング理論である。功夫のコンディショニングには、筋肉は柔らかくし、そうしてぱったんような殴れを自分の体にあってる。これは内臓を丈夫にする方法でもある。しかし、空手の場合には、筋肉を硬くし、体を石のように鍛えるものである。これは筋肉を丈夫にするものである。これらの理論の違いは体の内と外のどちらを中心に訓練するかの違いである。 琉球王国で唐手の存在  琉球王国には、唐手は完全に新しいものに変化した。この変化の理由を示す記録は時代の流れの中で失われていったが、いくつかの提案はできる。功夫以外の影響は侍の武術、琉球王国の文化や薩摩の支配だった。唐手のフートワークは現代の柔道と似ており、安全な予測は侍の武術からの影響もあった。唐手と侍の武術が出会った理由は薩摩藩の支配時代であったろう。しかし、それも「空手は船で戦うもの」という古い話にあるように、歴史的には、琉球王国は海洋王国であったため、それも影響があったかもしれない。  薩摩藩の支配の下、武術の鍛錬に制限が設けられた。特に、多くの民は刀を持つことは禁止された。これも唐手には影響があった。唐手とその他の武術を薩摩藩から隠すことが必要になった。そのために、琉球王国の士族は自身の特別な武術の技を踊りの中に隠すなどした。関節技や崩し技は現在の雑踊りに見ることができるという。刀の武術は唐手の王権流派がまだ存在するが、他の唐手流派は剣術の基本を流派の型や基本技の中に隠した。だが、この隠すこと自体が意外に良いものを生み出していった。隠した伎は余興となり、いつしか、その余興は広まり、現代の空手につながっていった。  他の唐手が変われたものは唐手の達人たちの混ざて練習だった。歴史的に、唐手の達人は三つの町、首里、泊、那覇を中心に発展してきた。その三地域で、名のある達人がともに修行し、語り合い、そして、自身の唐手を磨き上げてきた。 王国時代、首里城を中心に発達した「首里手」、商業都市那覇で栄えた「那覇手」、両者の中間にあった泊村一帯で栄えた「泊手」があった。いずれの地域でも著名な武人を多く輩出し、その伝統を今日に伝えている。 沖縄県教育庁保健体育課編(1995)p.3 唐手から現代の空手へ  唐手から現代空手への変化は唐手の達人の業績や時代の趨勢、国内外の政治の影響が大きかった。特に、糸洲安恒や船越義珍は多くの影響力を持った。その両名は「現代唐手の父」と呼ばれている。門下生が学ぶために、糸洲安恒は複雑な古い型を単純な平安型を作った。糸洲安恒は唐手が日本本土に伝えるために、「唐手心得十ヶ条」と言う有名な手紙を書いた。が、糸洲安恒のもっとも重要な貢献は他の唐手の達人に手ほどきをしたことである。その時代の有名な唐手の達人の多くは彼の弟子であった。  糸洲安恒は唐手に日本へ伝えたが、船越義珍はその唐手で一躍有名になった。船越義珍は糸洲安恒の弟子だった。彼が有名となったきっかけは船越・義珍と彼の弟子が東京の柔道の総本山、「講道館」で唐手の披露を行ったことであったであった。その後、1936年に、船越・義珍は自身の道場を建てた。その道場の教えは現代の『松濤館』と言う空手になった。それ以外に、その道場に教え時には、中国の影響を隠すために、船越・義珍は唐手の「唐」は「空」に変化した。これは現代の空手の誕生だった。  他の現代空手の貢献者はもちろん、別々の流派の創設者だった。例えば、少林流の場合には、喜屋武朝徳と言う達人は創設者ではなかったが、少林流に大きな影響があった。喜屋武氏は本部家で生まれたが、喜屋武家の養子になった。本部家は琉球王国の貴族だった、琉球語で「本部うどぅん」と呼ばれていた。本部うどぅんも影響力のある空手家を生んだ。その達人の一人は本部朝勇と言う達人だった。本部朝勇は本部家の武術の一派、琉球王国の王権流を学び、「本部うどぅん手」を創設した。本部うどぅん手は他の空手と違って関節技が多くあり、実践的な武術だった。あと一人の著名な本部家の達人は本部朝基だった。本部朝基は実践的な喧嘩に興味があり、そのために彼はよく技を試すためにストリートファイトをしていたという。もっとも有名な拳闘試合は本州で試合で外国人のボクサーに勝った。その他の重要な試合では、本部朝基は船越義珍の道場破りをした。とはいえ、本部朝基の空手「本部流」は有名にならなかった。 次に「空手」が学校教育の授業として採用されなかった理由について考えてみる。 明治三十四年(一九〇一首里尋常小学校(後の首里第一小学校)で、糸洲安恒の指導のもとに正課の授業が始められた、という話がある。学校という規則の厳しいとおころで、いかに「からて」が体育的の価値が高いからといって、ある日突然、正課の授業になるとは、常識的に考えられないことである。…